戦艦大和の生存者談話

戦艦大和の乗組員であり生存者である三重県名張市に在住の北川茂さん82歳にお話を伺った。
実に顔色も良く「戦艦大和こそ、わが青春」と回想する北川さんは、
持ち場が操舵室より高く聳えている位置にある前檣楼、
側的所内の伝令兵として中部指揮貴所との連絡を受け持っていたという。
そのために、防空指揮所に届く各部署からの緊張した報告、連絡を逐次受け、
伝達していた。そのたびに失敗が許されない判断をする司令長官・伊藤整一氏、
「戦艦大和」・艦長有賀幸作氏らの指示や、飛び交う怒号に似た声が今でも
聞こえてくるとのことです。想像を絶します。
自身の前檣楼共左に傾き、真下にはアメリカ軍の魚雷があちら、
こちらに被弾し燃えて、爆発を繰り返している最中、上を見れば、
執拗にアメリカ軍のF4F戦闘機が戦艦大和の左舷を魚雷による狙い撃ちを
繰り返している。まさに地獄絵図だったと北川茂さんは述懐されました。



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戦艦大和引き揚げ計画・・・・!

★戦艦大和が建造された広島県呉市で戦艦大和の引き揚げ準備委発足のニュースが入ってきた。

呉市で地元商工会議所などが中心となり「戦艦大和引き揚げ準備委員会」の初会合が開催され、数年以内の引き揚げを目指す計画である。

正式な実行委員会は、大和沈没の日に合わせて4月7日に組織する予定との事。
準備委員会は可能なら船体全体の引き揚げを目指すとしているが、課題は資金の確保で、数百億円が必要と言われている。その場合、現実的な数字として数十億円を想定し、個人を中心に全国から募金を集める考えとの事ですが、実現を祈っています。

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呉 戦艦大和

★日本の海軍の技術を結集して、呉港で秘密裏に製造してきた、戦艦大和もいよいよ出撃の期が来ました。1945年4月5日、連合艦隊より沖縄海上特攻の命令を受領した「戦艦大和」。4月7日12時32分、鹿児島県坊ノ岬沖90海里の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始した。

アメリカ軍艦爆数機が急降下、1機撃墜、中型爆弾(250キロ爆弾と思われる)2発を被弾。後部射撃指揮所が損壊した・・・・
以後14時17分まで、米軍航空隊386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)による波状攻撃を受けた結果、大和は爆弾の直撃を受け、艦内では火災をおこし艦上では対空兵器が破壊された状態に成っていた。

米軍の高性能爆薬を搭載した魚雷による効果的な左舷集中攻撃の結果、復元性の喪失と操艦不能を起こし、後部注排水制御室の破壊により、注排水が困難と成ってしまった。又副舵が故障し、舵を切った状態で固定され、直進乃至左旋回のみしか出来なく成った。

戦艦大和への最後のとどめの攻撃は、空母ヨークタウンからの艦載機による右舷後部への魚雷攻撃で、大和の艦底を攻撃するために、意図的に深度を深く調節された魚雷が使用された。また今までの魚雷命中に無いような 下から突き上げられた後に「艦全体がブルブル振動して、グッグッと沈下した・・・」という証言もある程の凄まじい攻撃であった。
横転又は転覆は14時23分。大爆発を起こして艦体は2つに分断されて海底にあえ無く沈んだ行ったのである・・・・。無念!!
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戦艦大和 沈没地点

★戦艦大和建造の秘密1937年11月4日、広島県呉市の呉海軍工廠の造船ドックで起工された。そのドックは大和建造の為に拡張され、長さが314m、幅45m、深さ11m。
米国には建造は秘密裏に進められ、当初は海軍の中でも一部にしか知らされていなかった程である。
機密保持のため造船所を見下ろせる高台には板塀が設けられ、憲兵が警備にあたっていた。

造船所自体が厳しい機密保持の為、建造に携わる者は厳しい身上調査が行われ、廻りは軍の管制下におかれて、歩哨が要所を警戒していた。

4月7日12時過ぎ、鹿児島県坊ノ岬沖90海里の地点でアメリカ海軍艦上機を50キロ遠方に認め、射撃を開始したが、アメリカ海艦爆数機が急降下、1機撃墜、中型爆弾2発を被弾。
後部射撃指揮所が損壊した。また、一発が大和の主砲に当たり、特に後部射撃指揮所はオノで叩き割られたように跡形もなく破壊された。またこれによる火災は沈没まで完全には消火されることはなかった。以後14時17分まで、米軍航空隊386機による波状攻撃を受けた。


大和は爆弾の直撃を受け、艦内では火災をおこし艦上では対空兵器が破壊された。米軍の高性能爆薬を搭載した魚雷による効果的な左舷集中攻撃の結果、復元性の喪失と操艦不能を起こした。
後部注排水制御室の破壊により、注排水が困難となった。これより容易に米軍は大和に魚雷を命中させる事が出来た。

大和への最後のとどめの攻撃は、空母ヨークタウンからの艦載機による右舷後部への魚雷攻撃で、大和の艦底を攻撃するために、意図的に深度を深く調節された魚雷が使用された。
その為、魚雷命中に無いような下から突き上げられた後に「艦全体がブルブル振動して、グッグッと沈下した・・・」という。

その後急に傾斜が激しくなり、お椀をひっくりかえすようにゴロンと横転し、海面が盛り上がって大爆発したという記載も残っている。

鹿児島県坊ノ岬沖90海里の地点で4月7日14時23分に横転し、大爆発を起こして艦体は2つに分断されて海底に沈んだのが最後である。
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★戦艦大和の仕様:
基準排水量 65,000トン
公試排水量 69,000トン
満載排水量 72,809トン
全長 263.0m
水線長 256.0m
全幅 38.9m
乗員最終時:3,332名

戦艦大和の生存者

第二次世界戦争後、戦後生まれの我々の歴史上で今でも日本人の心の中に埋もれて懐かしく思い出されるのは日本の誇る「戦艦大和」の勇姿では無いだろうか?

艦名は、旧日本国名の「大和国」に由来して居るが、日本の中心地としての日本の代名詞と言える「大和」を冠にした事にも、「戦艦大和」に掛ける期待の度合いが大きいことが見て取れる。正式には“軍艦大和”が呼称である。
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特に、当時世界最大の46cm主砲3基9門を備えていたが、日本の最高技術が結集された「建造技術」と「効率的な生産管理」は、戦後の日本工業の生産方式の源となったと言われています。

太平洋戦争開戦直後の1941年12月に就航、やがて主力の連合艦隊旗艦となったが、太平洋戦争末期には、海軍の主戦力は船から素早い動きをする「航空機」の攻撃には対応出来ず、戦艦としての性能を発揮する場がほとんど無い状態で「悲劇の軍艦」を迎えたのである。


1945年4月7日、菊水作戦において米軍機動部隊の猛攻撃を受け、坊ノ岬沖で撃沈された。
しかし、アメリカ空軍の総攻撃にあえ無く沈没した「戦艦大和」の衝撃的ニュースに当時の日本国民は信じられない思いとこの戦争に負けるのでは?疑心暗鬼になった。

そこで、何時も話題になるのが、生存者は居たのか?
記録によると、
戦死者は伊藤整一第二艦隊司令長官、有賀幸作艦長以下2,740名、生存者は276名と成っている。

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